これまで世界にはさまざまな思想家が登場して人間の問題を考えて来た.人間の本質や悩みへの対処法にはいろいろな意見が出ている.どれも一長一短だ.すべての問題を一人の思想で解決しきることはできない.
しかし,分野を限れば,際立った業績を上げている人が必ずいる.
戦争に勝つには孫子に学べ.経済の問題はマルクスに相談.欲の悩みは釈迦に持ってけ.
人類の目標はあらゆる思想や宗教の統合である.そのためには思想家の違いを認めた上で共通部分を相互に連結して行く.どこが同じで,どこが違うのか.どうして違うのか.一見同じと見える主張も実は違うのではないか.逆に違うと見える主張にも実は共通点はなかろうか.
こうすれば人間の特定の問題についてどう対処したら良いか特定できるようになる.
これを思想博愛主義と呼ぶ.
今までの思想観はまるで字引だ.辞書にはアルファベット順で単語が並んでいる.品詞の分類もある.言葉の意味も記されている.しかし辞書をいくら読んでも言葉を話せるようにはならない.
思想博愛主義には大きな問題点がある.堕落すると大変なことになる.
世の中には自分の都合に合わせて文化宗教を渡り歩いておいしいところだけをつまみ食いする奴がいる.極端な例を見てみよう.
年少者に威張りたいから儒教.クリスマスプレゼント目当てにキリスト教.二人目の奥さんが欲しいからイスラム教.それでいて,親はコケにする.日曜日はパチンコ三昧.豚肉は食う.
これを文化プレイボーイと呼ぶ.
文化プレイボーイは楽しい.私も経験があるからわかる.
ユダヤ教は一神教として知られている.一神教の目標の一つは文化プレイボーイの防止にある.ユダヤ人は太古から中近東で交易をして来た.ルールや価値観の異なる様々な民族と付き合って来た.商人が文化プレイボーイをやると大儲けできる.しかしそんな奴が一人でも発生すると「あいつらはずるい.」という評判が立ち,やがて民族全体の信用を落とす.こうなると商売で不利な扱いを受けるようになり,悪くすれば民族存亡の危機になる.
宗教の自由は長い間認められて来なかった.今でも多くの地方で制限されている.それには理由がある.
文化プレイボーイには用心して欲しい.あれにはなるな.くれぐれも.やってる奴は早く足を洗え.周囲にそういう者がいたら何とかやめさせろ.ただ,説得やいじめでやめさせられると思ったら大間違いだ.
特にバイリンガルに厳しく言っておく.貿易立国日本が世界の信用を失ったらどうなる.
思想博愛主義への道程は険しい.
第一段階は自分の生きている文化を理解することである.日本人の中には「自分は無宗教だ.」と称している者がかなりいる.しかし本当に無宗教の人には未だお目にかかったことがない.
初詣に行ったことのない日本人はいるだろうか?
葬式で焼香しない日本人はいるだろうか?
兄や姉を名前で呼び捨てにしている日本人はいるだろうか?
上に挙げたのはいずれも神道仏教儒教という日本の宗教に基づく風習である.イギリスでは行われていない.
次の段階については実例を見ると良い.
アメリカで暮らしていたころ,カトリックの私は日曜学校に通っていた.私の住んでいた地域はイタリア系が多く,知っている限りカトリックの友人はだれも日曜学校に行っていた.日曜学校では聖書の話もあるあるが基本的に道徳の教室だと思って良い.
十二月は特別に神父さんが伝統的なクリスマスの風習について話をされていた.クリスマス前のある日,私は驚くべき光景を目の当たりにした.
何とユダヤ人の女の子が数人この講義に参加していた.もちろん家族や日曜学校には断っていたと思う.
アメリカというのは偉大な国だ.民族融和という理想を小学生が自発的に実践している.
最後の段階が一番厳しい.
日本の中学校に通っていた私は儒教道徳の社会秩序で生きながらキリスト教の平等な人間関係を実現したかった.私は次のような結論に達した.
目上の人については儒教道徳に従う.
後輩や女性などはキリスト教の考え方に従い対等に遇す.
やって見れば分かるが,それほど困難なことではない.ただ,「お前のやり方では後輩になめられる.困るから直してくれ.」と先輩などに言われる場合がまれにある.これは本当の試練だ.頑張り抜くしかない.
後輩を対等に遇すとかえって尊敬される.なめらることなどない.
女性を対等に遇すとかえって尊重される.対等な方が女性に大事にされる.
ポリシーをしっかり持って人を対等に遇しているとおもしろいことが起きる.あれこれ指図しなくても自分で考え自分で動くようになる.そのうち出藍の誉も生まれる.
年の離れた妹が私にはいる.彼女はアメリカで生まれてすぐ日本に来たので日本社会のなかで育った.アメリカ国民の彼女は高校大学とアメリカで学びアメリカの文化も身につけた.そして,典型的な文化プレイガールになった.
儒教の長幼の序にも従わず,キリスト教の対等な人間関係も持たず私をコケにするようになった.そこである日私は彼女に厳しく言っておいた.
「兄妹の関係は日本流かアメリカ流かどっちかにしてもらうぞ.どっちでもかまわない.ずっとアメリカで暮らすつもりだろう.ならアメリカ流が良いと思うが.」
当然妹はアメリカ流を選ぶだろうと思った.年長者に変な特権が発生する日本流なんてだれだって避けたいはずだ.ところが妹は違っていた.
「ずっとお兄ちゃんでいて欲しい.」
どうも甘えたい人にとって儒教は都合の良い宗教であるようだ.
上のように私のような帰国子女の家庭では男子は日本の学校へ行かせて女子は留学させたりインターナショナルスクールに行かせたりする例が多い.なぜだろう.