最近インドとパキスタンが相次いで核実験に成功した.核拡散防止を願って自重を求める世界に対しての彼らの言い分はこうである.「キリスト教もマルクス主義も核を持っている.イスラム・ヒンズー教が持って何が悪い.」
ここで,重大な疑問に突き当たる.イスラムは良いとして,なぜ,ヒンズー教なのか.人間に四種類いるというけしからんあの宗教である.あれを今もって支持している人がいるのだろうか.確かに上の階級は自分達の特権を守るべく旧制にしがみつくだろう.しかし彼らは少数であり,民主化や経済改革が進んで古いしがらみに捕らわれなくなった大多数の下層カーストの人々が賛成する訳がない.カースト制度はもう維持不能なはずだ.
ところがヒンズー原理主義の政党なるものがインドで勢力を伸ばしていると言う.一体だれがこんな政党に投票しているのだ?
父がアメリカに留学したとき,下宿を兼業の農家から大学に通っていた.この下宿には世界各国からの留学生が住んでいた.父は当時を振り返ってこういう.
”And we all spoke broken English.”
留学生の中にひとりインド出身の若者がいた.父は当時を思い出すと,自然にこの男の話題が出てくる.石油ショックの前にアメリカに来れたのだから,かなり上位のカーストの出身であった.親は公務員だったというからクシャトリアに所属するのだろうか.
ごみ出しや清掃の当番には決して参加しない.曰く,「床は汚い.」皆が食器をふくために使っているタオルで手や顔をぬぐう.ベジタリアンの彼はアメリカで食事に困った.あるとき同僚が彼に煮豆の缶詰を買って来てやった.彼はそれを平らげてから缶のラベルの細かい字を読み,「ビーフストック」が原料に入っていたことを知り,激怒した.「よくもおれに牛肉を食わせたな.」
彼は皆から馬鹿にされていた.人を見下す者は人からも見下される.インドでも状況は同じなのではなかろうか,と私は思う.下位カーストの者は表面上上位カーストの者に服従しながら,心では軽蔑しているのではなかろうか.
ヒンズー教の考えに従えば,良い行いをした者は来世においてより高い身分に生まれ変わる.悪い行いをした者は死後下位の身分もしくは動物に落とされる.しかしこの教えだけでは社会秩序は維持不可能のようだ.カースト制では異なるカースト間の結婚は当然禁止.カーストを越えた姦通が起こると生まれて来る子はカースト外の被差別身分にされる.罪を犯した訳でもない子供を罰するというやり方である.しかもこれは一代限りでなく,子々孫々永遠に続くのである.カースト制は来世と係わりあう宗教ではなく,現世の中のいじめによって維持されている.
バラモン出身者が殺人強姦などの凶悪犯罪を犯しながら裁判で無罪となり放免されてカースト間の血で血を洗う抗争に発展したという事件も最近まで聞かれた.あまりにものストレスに法や道徳などかまっていられないのだ.当人のためを思って,反省と償いの機会を与えてやって,良き来世が得られるように図るという考えをこの国の裁判官は持ち合わせていないらしい.重罪を犯して反省しないばかりか報復合戦に明け暮れる僧侶階級なんて間違いなく来世は動物だ.
身分制社会というものは多くのストレスを生む.世の中を革新させる技術の開発は疎んじられたり禁じられたりする.外国との交流も行われなくなる.社会は自給的になるから,地域や職業による細分特化が進む.インドは方言が多く,それぞれの地域が土着言語に固執するから外国語の英語を共通語とする他ない.
結婚は同一身分内で行われる.結婚に関する身分規定は細かく,候補者を選ぶようなような余地はない.幼少のころから結婚相手が決まっているということが多い.それに加えて,同じような環境で育ち同じような価値観を持った相手と結婚することになるから,お互いに魅力を感じない.激しい男女差別が行われるのはこのためである.男女の差異を人工的に強調して引力を発生させる.女は男に服従するものだと教え込んでおくのはもとより,離れる事を不可能にする制度を巡らしておいて婚姻の絆を保存する.
インドにはヨガといわれるものがある.宗教的な体操と見られているが,社会の歪みを体で表現しているという側面もある.長年ヨガの修行を続けると奇異な姿勢に体が凝り固まってしまうという.
このようにインドの社会は問題だらけだが,良い面もある.インドの人は目がすわっていて落ち着いている,と言われる.最近では事情が変わって来たが,彼らは外国と戦争することがほとんど無かった.人口が多い割には自然が大切にされている.
インドは長年イギリスによって植民地支配されていた.征服者は被征服民の習俗を悪く宣伝してよそ者の自分が統治している事を正当化するものである.イギリス人はカースト制の支配に便利な側面に着目して温存させた.彼らが世界中に宣伝したとおり,インドの宗教や社会制度が非人間的だったならキリスト教と民主主義を教えてやれば良かったが,そうはしなかった.
またインドには仏教という人の平等を説く理想的な宗教の生誕地である.仏教の布教活動は行われているというがなぜか広まらない.この理由は私は全く理解できない.インドについて知らない事が多すぎる事は確かだ.
ヒンズー教の基本的な考え方は悪いものではない.ヒンズー教とカースト制は不可分とされているが,もともとは別のものであった.ちなみにカーストは「色」を意味すると言い,肌の色の白いヨーロッパ人の親類が色の黒い現地人を征服した時から始まった人種差別が始まりである.モヘンジョダロは肌色の黒い人達の文明だったと言われる.
ヒンズー教は多神教とされているが,本質的には永遠の絶対神アートマンを崇拝する一神教である.人は輪廻天性を繰り返しながら魂を高めて最後にアートマンと一体となる.
特権階級バラモンは実は富貴と権力に恵まれながら人間のあるべき姿を守っていられるか試されているのだろうか.だとしたら大変な試練である.
無限の存在であるアートマンは有限の存在である人には理解しきれない.そこで絶対神の部分的な側面を持った神が幾つか用意されていて,究極神アートマンを理解する手助けとして人々がそれらを崇拝することが許されている.
これらの神々の中で重要なのは創造神ブラーマン,破壊神シヴァ,保存神ヴィシュヌである.ブラーマンはもう仕事を終えているのであまり崇拝の対象とならない.崇拝者が一番多いのはシヴァである.シヴァが破壊をすれば,新たな命が育つ余地が生まれると信じられている.ヴィシュヌは保存と再生を担当し,人気があるがシヴァほどではない.
ところでオウム真理教というのはこのシヴァをインドから日本に連れて来た.破壊活動に勤しむのが彼らの生きる道である.宗教法人の認可申請の時からこの事はうたわれている.
破壊活動とは街中で毒物を散布したり,誘拐を働くなど実体の伴う行為ばかりでない.最近,オウム教の信者が住み着くのを阻止しようとして法を曲げてでも信者の提出する役所への転入届けの受領拒否を行っている自治体がある.オウム教は法まで破壊している.地方政府はそうとは知らずにオウム教の破壊活動を援助している.
日本でも士農工商という身分制度が敷かれていた.士農工商はカースト制と類似点が多い.階級の数や階級外被差別民の存在など大きいところは共通である.日本においても地域職業男女における風俗はもとより言語の明確な差異が認められる.これが今日も根強く残っている事は何を意味するのか.
ヨガに対応する社会の歪みの表現手段は浮世絵の人物画である.浮世絵は苦痛を通り越えて無理なポーズが多い.人物画ばかりか風景もしばしばゆがめられる.これが十九世紀末のフランスでもてはやされたのには訳がある.行き詰まっていた西洋美術に新たな手法を伝授したから,という解説には限界がある.
士農工商では,物を本質的に生み出している農業が一番重要な活動で,それを加工する工業が続き,何も物を生み出さずに物を右から左へ渡している商業が最も卑しいと見る経済観念に立脚されるとされてきた.武士はこの社会の秩序を維持する特権階級だと言う.
情報という観点から見ると,別の説明ができる.士は道徳を,農は産物を,工は技術を,商は情報を世に提供するのをそれぞれ生業としている.本質的にはすべての階級は独自の方法で情報を生産再生産し,世に送り出している.
商業は入手容易な情報を隠したり,操作したりして米や為替などの相場を操縦している卑しい業である.工業で生きるには人は時間と努力をかけて技術情報を会得しなければならないが,ギルドを組んで情報を管理している面もある.農業においては情報は完全に共有され,独占されることはない.
武士の担当する道徳というのは,情報を提供する一方の仕事だが,それは簡単な事ではない.口で伝えても道徳は広まらない.道徳のリーダーは模範的な行動によって人のよすがとなるしかない.情報提供を求められたら,何でもただで教える義務がある.何も売れないからこの身分は生活が成り立たない.武士が国家から生活費を保証され,そのうえ特権があるのはこのためである.皆から慕われるから自然に贈答品が集まる.
理想と現実は随分違う.武士は政治の情報を独占秘匿し,情報をリークする見返りとして賄賂を求めることもしばしば行われた.松の廊下の刃傷事件の発端を思い出してみよう.
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と言う言葉から伺えるのは農民から実力で収奪する武士の姿である.穏やかな言い方をすれば,農産物の流通の川上を担当していたことになる.江戸時代においては武士がモラルを指導していた面は薄く,各身分がそれぞれ独自のエートスを持っていたと見るほうが自然である.こうした庶民倫理は「いろはカルタ」に代表される格言にまとめられている.
「民は之を由らしむべし,知らしむべからず」と言う論語の一節の曲解は江戸時代にはあったと聞いた.本来は「道徳は知らせることはできない」ことを言おうとしているが,「情報を民百姓に教えると良くない」と言う意味だとされてきて,今日でも官庁に対する情報公開要求への抵抗の思想的な根拠となっている.上位の人々は下位の人々の情報に自由にアクセスできて,下位の人々は上位の人々の持つ情報にアクセスさせない,権力とはそういうものだとの考えが当たり前になっている.
世の中を停滞させたければ,確かにこのやり方は有効だ.
今日の日本においては,官僚は士分を気取っている節がある.しかも,彼らは権力と情報を独占しようとすればするほど人は皆から疎んじられると言う事を認識していないようだ.
地下鉄サリン事件では霞ヶ関駅の混乱を最大化しようという目論みがあった.実行犯のオウム真理教の教団組織はおかしなことに日本の省庁そっくりに編成されていた.
日本の貿易黒字基調がはっきりし,バブル経済に突入したころの話である.巷の興奮をよそに,私の大学の言語の先生は冷めた見方をしていた.
「上り詰めれば,必ず没落する.いかに上手に没落するかだ.良くてイギリス.しかしあそこは階級社会だからな.」
「悪くてスペインだろうか.」とその時私は思った.