日本の高等学校で現代社会という教科が始まった年の新学期の最初の授業の時の事である.ある田舎の進学校でこんなやりとりが行われた.登壇した教授が自己紹介を終えてこれから進める授業のあらましについて話し始めた.
「社会とはどういう学問か.人間について考える学問である.それでは人間とは何か?人間と猿との違いは何か?」
ケンイチという生徒が指名された.
「猿はセックスをしたくなるとすぐしてしまうが,人間なら我慢する.」
教室は爆笑した.教授はケンイチを口先でたしなめておいたが表情は明らかに喜んでいた.かなりスケベな先生のようだ.
これに対してヤスオという生徒が挙手して発表した.
「猿に性欲はありません.」
「何だそれは?」教授はこの言葉の意味を測りかねた.教室の興奮は冷め返った.
ケンイチの意見とヤスオの意見は正反対のように見えるが,実は同じことの別の側面を言っていると私は考えている.
さて,このヤスオの思想を理解するために背景を少し説明しよう.
日本で生まれた彼は幼くして家族とともにアメリカに渡った.小学校の何年かを彼はそこで過ごした.勉強と読書の好きな彼は幸福だった.やる気がある者にはどんどん課題が与えられる.彼はこの社会の支えとなっている自由や平等や開拓者の精神をこよなく愛した.とりわけ彼にとって重要だったのは教会である.彼はこの社会の中心にキリスト教の教会があることを良く知っていた.
日本に帰国したヤスオはやがて熾烈ないじめにあった.日本という国はアメリカと正反対で考え方の異なる者を迫害しがちなことを彼は悟った.しかし思い上がりの強い彼は自分の考えを曲げなかった.管理教育が徹底している地方という事も重なり,悪循環に陥った.先生を含め,クラス全員が彼の敵となった.
ヤスオは保健室の先生に甘えたり登校拒否を起こしたりはては自分より弱い者を見つけていじめを転嫁することまでやった.しかしやがて級友とも和解して平穏を得た彼は独り考え事に更けるようになった.
中学生になったヤスオの中に,一つの思想がまとまり始めていた.
愛は良いものだろうか?
愛に価値が有るとすれば,そのように定義しなければならない.
優しさ,厳しさは良い愛.甘やかし,いじめは悪い愛.
人を愛するには何をしなければならない?相手を理解しなけらばならない.
人を理解するためにはどうするか?まず自分を理解しなければならない.
自分を理解するのは難しい.自分には内面と外面とがある.内面の理解は困難だが,外面は勉強すれば理解できる.実は,外面の理解は内面の理解に通ずる.凡我一如と言うではないか.
勉強すればするほど人を愛せるようになる.勉強しなければだめだ.
ヤスオは自分の考えたこと勉強したことが正しかったのかどうか,高校に入ったら試して見ようと決心していた.とにかくやって見る.自分の考え方を人生の先輩に話して意見を伺おうなどとは考えもしなかった.