サラブレッド

 ヤスオという男がいた.彼は良く学び,それをもとに考えるのが好きだった.そして結論を出すと実行に移した.
 ヤスオは数年間アメリカで暮らしていた.民主主義の素晴らしさを知っていた.そして日本を良い国にしたのも民主主義だと考えていた.中学に入って間もなく彼は志を立てた.
 「僕は政治家になる.」
 政治家になるためにはリーダーシップを学ばなければならない.中学二年の時,彼はクラスの委員長に立候補した.クラス委員長に立候補したがる人は余りいない.彼はクラスの信任を得て委員長に就任した.
 マキコという女がいた.まじめな勉強家でスポーツが得意だった.色白の美人である.人の話を良く聞きユーモアのセンスがありよく笑った.ヤスオのクラスの副委員長にはマキコが選ばれた.

 全校のクラスの委員長と副委員長は生徒協議会と呼ばれる生徒会の会議に毎週出席する.生徒会の行事の運営方針や生徒の規律について議論するのはここである.生徒協議会の出席者の席は決まっていた.ヤスオとマキコは同じクラスなので席が隣合わせだった.積極的なヤスオはこの会議で最も良く発言する議員だった.彼の意見は人の意表を衝くものばかりだった.建設的な意見であることもあったが,彼のせいで会議が紛糾することもしばしば起きた.この会議の議事進行を最も注意深く聞いていたのはマキコであった.彼女は隣のヤスオが気になって仕方がない.
 「この人いつ何時何を言い出すかわかったものじゃないわ.」

 マキコは陸上部に所属していた.性格の良い彼女は部員の皆から慕われていた.二年生になったころから彼女は大きな大会で優秀な成績を残すようになった.陸上部一の俊足はやがて仲間の女の子たちからサラーと呼ばれるようになる.ヤスオもマキコのことをサラーと呼ぶようにした.そうしている男のは彼だけだったが,そのことに彼は気づいてなかった.

 中学三年になって組み替えが行われてもヤスオとサラーは同じクラスになった.ヤスオの大きな声がクラスの皆を驚かせた.
 「おいサラー.」
 「はいはい」おずおずと彼女がやって来る.「何でしょう.」
 「ヤスオのやつマキコの事をサラーと呼んでるぜ.」
 クラスの者は「ははあん」と思った.
 春の終わりころ修学旅行が行われた.学年は京都奈良へ行った.修学旅行から帰って来てしばらく後,奈良公園でヤスオとサラーが仲良く鹿に餌をやっている写真が出て来た.ヤスオはこれをもみ消した.以降彼はサラーを呼び付けたりするのを謹むようになった.
 サラーには親しい女の子の友人ができた.二人は放課後べったり寄り添っていた.何を話すのでもなく,ただ感傷的な気持ちに浸っているだけだった.

 ヒロオという男がいた.彼は町の繁華街の大きなレストランの経営者の息子だった.野球部のレギュラーだった.あまり勉強は熱心ではなかったが豪放な性格が好まれて友達が多かった.先生に対しても物怖じせずにズケズケと何でも言った.彼は仲間からジャックと呼ばれていた.ジャックは魂の字を刺繍した派手なズボンを見せびらかすようにはいていた.
 ジャックとヤスオは不思議と仲が良かった.ヤスオは卑猥な話を思いつくのがうまかった.だれも考えもしないようなことを言う.ジャックはヤスオからしきりに話を聞き出した.
 ある日ジャックがヤスオをいじめに来た.野球部の部長も一緒だった.ゴリラのような体格.運動会では騎馬戦で東軍の総大将を務めた.二人の言い掛かりにヤスオは答えた.
 「改革.改革.それが僕の仕事だ.」
 「わかった.お前はお前の道を行け.」

 何カ月も後の休み時間のことである.ヤスオはサラーがおずおずとジャックの所へ駆け寄り手紙を渡しているのを目撃した.返事のようだった.
 放課後の教室はサラーとジャックの貸し切りとなった.他の者はめったな事では入れなかった.

 中学を卒業してヤスオとサラーとジャックは別々の高校に進学した.ジャックはサラーと交際を続けていたらしい.一年半ほどして噂がヤスオの耳に届いた.
 ジャックはサラーを捨てて他の女を見つけたらしい.

 それから何年も後クラスの者が同窓会を企画した.皆は大学生になっていた.
 同窓会の当日,ヤスオが宴会場に入るや声をかけて来たのはサラーであった.彼女はその快活な声で話し始めた.
 「私大学でドイツ語習ったの.なんにもわかんなかった.でも一言だけ覚えた.」
 「ほう.それは?」
 "Ich liebe dich."

 サラブレッドは美しい.

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